感想文集【1】「どこまでも深く、どこまでも求めて」 やよい

 27曲目、ラストの曲である『フロム・ナウ・オン』が終わったとき、緞帳が下りました。そして、緞帳が再び上り、目の前に広がるその光景を見たとき、本当に現実なのだろうか、夢ではないのだろうか、と感じました。約660人のお客さんがする拍手の音がなり響きました。660人のお客さんが喜びに満ちていました。会場には興奮と感動の空気が確かにありました。
 なのはなのお父さん、お母さん、みんなと作り上げたものを目の前のお客さんに出して、そして拍手喝采が帰ってきて、私たちとお客さんとの間にその場にいる人にしか分かりえないような感動が生まれたように思います。
 『ザ・グレイティスト・ショー』の歌詞にある“色とりどりの光に覆われた場所”が目の前にありました。
 
 本番当日、レッスンルームの昼食の席には約110人の人がいました。今年はじめて競演する勝央金時太鼓保存会のみなさん、まみちゃんとその旦那さんの大竹さん、そして大竹さんの友人である正田さん、大野さん、友の会のりゅうさん、台所の牧野さん、卒業生のみんな、お父さん、お母さん、なのはなファミリーのみんな、そして、ホールにはすでにお客さんが入場しはじめていました。
 私は本番前で緊張していたけれど、レッスンルームはなのはなファミリーの暖かい空気で満ちていました。大勢の人の協力によって、このウィンターコンサートは成り立っています。私には計り知れないたくさんの人たちの大きな力です。
 
 このウィンターコンサートに向かってみんなと日々走り続けました。約70人の仲間たちと、同じ一つの目的に向かって走りました。
 ダンス、コーラス、楽器、演劇……この日を迎えるまでみんなの生活はウィンターコンサートへの準備に染まっていきました。
 一秒たりとも無駄な時間はありませんでした。
 
 私はなのはなの子として、自分が与えられた責任を果たしたかったです。
 今まで一度も失敗はなかった、この伝統ある大舞台なのはなファミリーウィンターコンサートを今年も成功させたかったです。先輩方が築いてきたこの歴史を、卒業していく人たちと新しく入居してくる人たち、入れ替わりが大きくあろうが、その伝統を守りたいと思いました。誰かについていくのではなく、自分自身でこれまでの伝統を守り、新しいなのはなファミリーを作っていくものとして、未熟で幼い私だけれど、少しでも力になって成功させたかったです。
 未熟で、浅くて、間違いが多い私だけれど、あるべき形に近づくため責任を持って走りぬきたいと思いました。
 
 
○ザ・グレイティスト・ショーとディス・イズ・ミー
 
 幕開けの一曲目である『ザ・グレイティスト・ショー』を踊っているとき、お母さんの声の響きが何度も何度も脳裏によぎりました。
 ウィンターコンサートの準備期間中、お昼の集合の時間に、お母さんがみんなの前で『ザ・グレイティスト・ショウ』の歌詞を読んでくださいました。
 そのお母さんの深くて綺麗な声の響きが今でも鮮明に心に残っています。涙を流さずにはいられませんでした。
 ”ああ、なんて素晴らしいショウなんだ”練習でも本番でもお母さんのその言葉を思いながら表現しました。
 この曲の歌詞は本当に私たちのことなのだと思いました。
 お母さんが歌詞を読んでくださったとき、私は練習のときの気持ち作りがとても浅かったと気付きました。
 “さあ、待っていた瞬間だ、ほら。暗闇の中で探し求めていた、君の汗が床に染み込んでいく”
 この歌詞は摂食障害の私たちそのもので、歌詞一つひとつに深い意味が込められています。
 そのことに気付くことが出来ていませんでした。お母さんが歌詞を読んでくださって、自分の心の奥にあった気持ちに気付かせてもらったように思います。
 私はこの曲を踊る意味、この曲がどういう曲なのか考えられていませんでした。
 この曲を踊るたびに心の深いところで迫ってくるものがありました。
 淡白で浅い私は、この曲をもっと綺麗に大きく踊れるようになりたいと思いました。
 のんちゃんがきてくれたとき、のんちゃんが振りを伝えてくれて、その踊る姿がとても美しかったです。
 大きくて、美しくて、隙がなくて、けれど、とても軽やかで背中には羽がついていて、どこかへ飛んでいってしまっても不思議じゃないように見えました。
 
 しほちゃんがサビを踊るとき、手を開くとき、そのスケールの大きさにいつも胸を打たれました。
 自分もこんな風に踊りたいと思いました。何度踊っても、淡白で小さくて、けどいつも少しでも大きく踊りたいと思いました。

 『ディス・イズ・ミー』では自分を誇りに思う気持ち“これが私”という目一杯の気持ちで表現しました。
 誰がなんと言おうが、なのはなで受け入れてもらった私、なのはなのお父さん、お母さんが肯定してくれた私、それが私であるということ。そのことに恥じや否定は一切しなくていいのだという気持ちで踊りました。
 本番では周りみんなと一体になっていました。そのステージに立った全員が自分を誇りに思う気持ちで踊ったのだと思います。
 『ディス・イズ・ミー』の演奏が終わると、たちまち拍手喝采が起こりました。
 お客さんはきっとみんなの溢れる気持ちを強く感じたのだと思います。
 私たちは目の前の人たちのために表現しています。目の前の人たちが気持ちを受け取ってくれること、そして気持ちが帰ってくること、そのことを感じられたとき何者にも変えがたい喜びで満たされます。
 
 
 
○みちこ

 

 前半のラストみちこの手紙のシーンは今回のウィンターコンサートでの不安要素の一つでした。体育館での通し練習でも、ホール入りしてからの練習でも上手く気持ちを込めて言うことができませんでした。
 
 私は今回のコンサートでみちこという役を演じさせていただくことになりました。
 ウィンターコンサートという舞台で演じられることがとても嬉しく思ったし、絶対に生半可なものにしたくない、やるからにはどこまでも突き詰めたい、自分の精一杯でより深い演技をしたい、と思いました。
 けれど、みちこという人がどういう人なのか理解しづらく、みちこになることがとても難しく感じました。
 セリフもなかなか頭に入らず、本番が迫ってくる中で焦る気持ちが日に日に増していきました。
  
 お父さん、お母さんが、”みちこ”という名前はお母さんのお母さんから取っていると教えてくださいました。
 そしてお母さんが、「お母さんのお母さんはやよいと似てるんだよ」と教えてくださいました。
 
 お父さんとお話させていただき、私はみちこが好きになれない、ということに気付きました。
「お前は自分が真面目であることに嫌気がさしているんだよ。真面目であることが嫌になっちゃってるんだよ」
 とお父さんが教えてくださいました。私はそういう自覚がありませんでしたが、お父さんは私の気付かない深い部分で私を理解しているのだろうと思いました。
 私は感情をコントロールできず、感情を人にぶつけてしまったり、気の強さに日々自己嫌悪に陥って、自分に嫌気がさすことが多いです。
 みちこさんは私ととても似ています。だからこそ、好きになれないのだと思いました。自分自身だからこそ。
 私は私を受け入れなければみちことしてステージで生きることができないのだと思いました。
 私は自分が好きになれないけれど、お父さん、お母さんが信頼してくださる私を信じたいと、好きになりたいと思いました。
「みちこのセリフは僕の気持ちだと思って言ってよ」
 お父さんがそう言ってくださいました。
(みちこのセリフはお父さん、お母さんの気持ち、なのはなファミリーみんなの気持ちなんだ)
 と今更ながら当たり前のことに気付きました。
 とても、尊いことで、幸せなことができるのだと思いました。私は自分を否定してはみちこを演じることができないと思いました。
 
 また、みちこは理想をすでに持っています。みちこは私がいる場所よりも一段上にいるように思いました。そのことも演じることが難しかった一因ではないか、と思いました。
 夜の集合で、お父さん、お母さんがお母さんのお母さんについてのお話をしてくださいました。
 気が強く、ストイックでこうあるべきだ、という理想、求める気持ちがとても強かった、けれど、周りの人に恵まれず、その気持ちに応えてくれる人がいなかった。
 求める気持ちがあったが、周りにその気持ちに応えてくれる人がいなかった、という言葉を聞いて、なのはなに来るまでの私を思いました。
 私は毎日家の中で憂鬱でした。好きな食べ物をたべることができ、好きなテレビ、漫画をみることができ、好きな時間に外に出れて、家族は私に気を使って私のお願いに対してノーということはほとんどありません。一見何不自由なく、平和な生活に思えます。
 しかし、孤独で、出口がない迷路の中にいるような気分でした。私は神様を探して生活していたように思います。この孤独から救って欲しい、誰か一人でも良いから、本当に正しい答えを教えてくれる人、導いてくれる人を求めていました。
 私はいい生き方をしたい、ただそれだけなのに、迷路から抜け出せない。
 
 みちこは神様ポストを見つけたとき、心のそこから嬉しい気持ちになりました。
 私にとって、神様ポストは質問ボックスと似ているように思います。なのはなファミリーに来て、質問ボックスという存在に驚きました。とても素敵な箱だと思いました。
 その箱に質問を入れると、どんな質問でもお父さんがその質問者に合わせたお父さん、お母さんのなのはなファミリーの正義を持って、答えをくださいます。
 私は質問をいれるとどんな答えが返ってくるのかワクワクしながら質問を入れました。いつも自分の予想しえないような答えが返ってきます。そして、その答えの深さに驚きました。私が探していたものが確かにここにある、はじめてそう思いました。
 
 お父さん、お母さんは私を信じてくださっています。
 私はお父さん、お母さんと似ていると思います。私は、なのはなファミリーに来るまで、ずっと孤独で一人浮いていて、自分と似ている人となんか出会ったことがありませんでした。私は、お父さん、お母さん、と同じ道を歩いていくのだと思いました。
  
 ホール入り2日目の夜なっちゃんと車の中で話していて、「やよいちゃんは今、そういう尊敬できる人と出会ったけれど、お母さんは40代になってやっとお父さんと出会えたんだよ。」と言ってくれました。私は本当に恵まれているのだと改めて感じました。
 
 みちこの手紙にある、みちこの祈りはなのはなに来る前の私の心の奥底にもあった祈りなのだと思いました。そのことを思ってセリフ一つひとつをかみしめながら話しました。
 
 少し前までは、私はみちこの手紙のような願いが自分の中にあるのだろうか、という疑問がありました。ここまで純粋に願っていたのか、わからなくなっていました。
 けれど、私のこれまでのことをよく考えて、自分の奥底にも確かにみちこの願いがあったと気付きました。
 “きっと、神様の意思とは違う世の中になっているとしか思えないのです。
 どうか神様、神様の思うような心優しい世界に導いてください”
 誰もが行きやすい世の中に、心優しい世界になってほしいという祈りが自分の奥底に確にあったと思いました。
 そのことを思って、話していると、思いがこみ上げてきました。
 ステージでみちことして、生きてセリフを言うことができました。その言葉はみちこの言葉でも私の言葉で、なのはなファミリーみんなの言葉です。
 
 みちこに対して、私は勘違いしていて、ただ気が強い女性なのかと思っていたけれど、そうではありませんでした。
 みちこはいち早く危機感を察知していました。生きることに苦しさを伴う世の中で、みんな大変なことに気付いていない、自分がどうにかしなければならない、一人で先頭をきるような、そんな風にみちこは思っているのだと、お母さんに教えていただきました。
 
 オリジナル曲では、親が子供が健全に育って欲しいという願いが込められています。みちこは人類が滅ぼされることを知り、絶望的な気持ちになりました。
 親は子供を完全にコントロールすることはできません。子供を完璧に守ること、運命を変えることは不可能です。
 そのはかなさ、無力さ、が人類滅亡を知ったみちこの(救えなかった)という無力感、気持ちと重なり合います。
 
 れいなは一生懸命で、転校してきて学校になじもうとオープンです。家族を亡くしてしまい身寄りがない、孤独、生きずらさを感じている、という点で共通点があります。
 そして、みちこはそんなれいなを守ってあげたいと思います。
 
 みちこは、求める気持ち、理想があります。友達、家族、教師とも距離を置いています。誰も、求める気持ちには応えてくれません。
 みちこは孤独です。だからこそ、神様ポストに手紙を入れました。
 
 お父さん、お母さんに質問したり、お話させていただくなかで、日に日にみちこへの理解が深まっていきました。みちこの生き方を深く感じていきました。
 
 なのはなの子として、ステージでどこまでもみちこになって、みちことして生きて、表現したかったです。私はどこまでも深く演じたいと思いました。
 一つひとつのセリフにはどういう意味が込められているのか、セリフがないときでも、みちこはどういう気持ちなのか、全て流さず、曖昧にせず、どこまでも突き詰めたいと思いました。お父さんが教えてくださる解釈、動きを教えてくださった日には、確実に頭に入れて、忠実に再現したいと思いました。
 
 緞帳が下りたとき、お父さんが私のほうへ歩いてきてくださり、声をかけて握手してくださいました。
「良かったよ」
 と言ってくださいました。
 私は、みちこを演じることがとても苦しかったです。
 あるときは、もう自分は無理だ、と思ってしまったこともありました。セリフが頭に入らず、通し練習中に、パニックなって頭が回らなくなり、逃げてしまったこともありました。
 けれど、最後まで諦めたくなかったです。絶対にみちこになる。みちことして生きる。そう覚悟を決めたかったです。とにかく脚本を何度も読み込みこんで、時間がある限り練習して、逃げずに自己嫌悪する自分を許さず、なんとしてでも、私はみちこになって、このウィンターコンサートでみんなの一部になる。そう祈りました。
 私は未熟で、浅くて、もちろん失敗はありまた。けれど、お父さんと握手をし終えた後、涙がこぼれました。 
 
 演じるのは難しかったけれど、みちこという一人の女性に出会えて、みちことしてステージで生きることができて、とても幸せでした。みちことの出会いを私にとってかけがえのないものとなりました。
 
 
 
○アンデスのシーン
 
 アンデスのシーンで、みちことれいなは一つの答えにたどり着きました。アンデスのシーンの団長さんのセリフが大好きです。
 
”二千年年前も今も、同じように人間味豊かな心を持ち続けている。
標高3000メートル以上、
 どこに行くにも山を上り下りしなければならない。
  畑を作るにも、平らな耕作地がない。
    働き者しか、住めないところ。
        欲のない人しか、住めないところ。
  それが自然環境の厳しすぎるほど厳しい、この山岳地帯だった。
     そこにユートピアが、いまも生き続けている。
    これが一つの答えなんだ”
 
 働くことは今までは生き甲斐でした。しかし、産業革命が起こり、働くことは時間の切り売りになり、大量消費、大量生産、それが幸せだと思うようになっていきました。そこに幸せはありませんでした。
 本当の幸せはアンデスのように二千年前も、今もずっと伝統、文化を守っている場所にあります。
 
 なぜ、れいなとみちこは2018年の世界へ生かされたのか。なぜ、現代の日本であったのか。それは、れいなの美しい理想を持つ心、みちこの理想を実現する勇気をがいまの壊れ始めている世界を再生する為に必要だったからです。
 れいなとみちこは納得します。れいなとみちこは新しい世界をつくるリーダーとして、意思を固めていくように思います。
 
 そして酋長の奥さんとして、さやねちゃんの『ナユタ』が鳴り響くとき、ステージは別世界へと塗り替えられます。
  
 アンデスのシーンのさやねちゃんの『ナユタ』を聞くと、さやねちゃんの研ぎ澄まされた透明でスケールの大きい世界を見せてもらっているような感覚に陥ります。
 さやねちゃんは無欲でどこまでも透明な美しい酋長の奥さんです。さやねちゃんの世界観が本当に美しくて、筆舌に尽くしがたいです。
 私も心の山谷を深く持って表現できるようになりたいと思います。
 
 さやねちゃんと酋長の奥さんの姿が重なり、なおちゃんのセリフと溶け込み、アンデスのシーンは情緒深いものとなりました。

 さやねちゃんはダンスを踊るとき、アコースティックギターを弾くとき、トロンボーンを弾くとき、何か表現するとき以外の、普段の姿も美しいです。その立ち振る舞いに意識の高さが表れています。透明さ、誠実さ、謙虚さ、正義、そこにあるべき姿があります。
 
 ウィンターコンサートに向かう中で、日々のダンス練習でさやねちゃんがリーダーでひっぱっていってくれました。
 常に理想を持って、美しい形にするために、妥協なくひっぱっていってくれました。
 さやねちゃんとダンス練習をしていると、自分が浅いところで手を打っていること、意識の浅さに何度も気付かされました。
 私も、浅い手ところで手を打たず、どこまでも志を高く持って、できようができまいが、努力しなければと姿勢を正されました。
 いつも意識を強く持たなければ、すぐに緩んでしまいます。いつどんなときでも本当にできる精一杯か疑って、自分を律して生活したいです。
 さやねちゃんの姿を見ていると向上心を分けてもらっているような気持ちになります。
 『ディス・イズ・ミー』も『グレイティスト・ショウ』も『フロム・ナウ・オン』も何度踊っても、踊れませんでした。私が踊る姿を鏡で見ると、淡白で小さくて、雑でした。
 さやねちゃんが踊っている姿が私にとって本当に大きいものに感じます。
 妥協せずに諦めずに、美しく踊れるようになりたいです。
 少しでも、今の安全地帯から抜け出したい、殻を破りたい。少しでも深い表現ができるようになりたいと思いました。私は今、まだ安全なところにいます。私はここに居続ける限り、人の心を打つような深い表現は決してできないと思います。
 今すぐにはできないけれど、私は今の自分を壊したいです。
 
 
 
○演劇

 

 脚本ができて、演劇練習が始まりました。演劇係は4人いて、なおちゃんがリーダーでのんちゃん、ももちゃん、私のメンバーです。
 リーダーのなおちゃんは平日と土曜日は夜遅くまでお勤めに出ていて、古吉野にはいません。リーダー不在のなかで練習を進めていくにあたって、私は演劇に関しては素人なので、どう進めていけばいいのか難しく感じました。
 脚本が出来ると、演劇練習がスタートしました。
 
 私は混乱していて、自分が作っていかなければならない、という気持ちがありました。けれど、経験がない私が教える、シーンを作るというのは出すぎたことでした。
 混乱していた私は、あゆちゃんにたびたび相談し、そのたびやり方を考えてくださいました。そうしているうちになのはなのコンサートをつくった経験がないメンバーで作り込み、そのなかでこねくり回すよりも、一番初めに正しい形をお父さんに教えていただくということがベストだと気付きました。
  
 途中であゆちゃんがやり方を考えてくださいました。リーダー不在のなか、経験や、知識がないメンバーで作りこむのは不可能で、その中でこねくり回すよりも、一番初めに正しい形をお父さんに教えていただくということがベストだと気付きました。 
 
 なおちゃんと演劇練習すると沢山のことにいつも気付きます。
 なおちゃんはとても忙しいけれど、その忙しさ、大変さをこれっぽっちも見せません。私も少しでもそうなりたいです。
 1週間たって、なおちゃんと演劇練習するたびに、このシーンをこういう風にしたいという工夫や面白いアイデアが必ず出ます。
 なおちゃんと練習していると、どの役でも、どのシーンでもその一つひとつに対する深い愛を感じました。同じシーンでもこれで完成、ということがなくて、もっと面白く、もっと目の前を楽しませられるような、という風になおちゃんはいつもそのシーン、役を進化させつづけていきました。
 本番前日にお母さんのアイデアでラストシーンの結末が団長、ジーブスが地球からレベル5へと帰ってしまうというラストから、宇宙船が壊れてしまい、地球に残るという結末に変更することになりました。
 そのラストシーンの団長、ジーブスのセリフをなおちゃんが短い時間で考えてくれて、実際にそのセリフを言うことになりました。
 「君も地球のことがいつのまにか気に入ってしまったんじゃないか?」と問う団長に対して、「さあ、なんのことでしょう。」とごまかすジーブス。
 このやりとりが面白くて、暖かくて、なおちゃん考えてくれたこのセリフのやり取りが大好きだと思いました。
 なおちゃんは演じることを生き甲斐にしています。大変だと苦しいとかいうことよりも、ただ純粋に人のために演じたいという思いが一杯なのだと思いました。
 セリフを覚えること、演技を作りこんでいくこと、ウィンターコンサートに向かう全てのことがなおちゃんにとって大変なことではなく、生き甲斐なのだと思います。
 そのなおちゃんの透明さ、綺麗さに何度もはっとさせられました。これがあるべき姿だと思いました。なおちゃんが日々たっているステージは私よりも何段も上なのだと思います。そんななおちゃんと一緒に時間をすごし、その姿を見て学べることが本当にありがたく思いました。
 自由気まま、少しお調子者、周りから好かれる憎めない団長、なおちゃんが演じる団長は本当に魅力的です。
  
 演劇係という役割をはじめて経験させていただき、大変だったけれど、楽しかったです。この役割を与えていただきありがとうございます。
 
 

 
○早着替え
 
 入団希望者のシーンから『ディス・イズ・ミー』への早着替え、『ディス・イズ・ミー』から次のシーンへの早着替えがありました。
 『ディス・イズ・ミー』から次のシーンへの早着替えは本番三日前まで間に合っていませんでした。
 早着替えをするごとに衣装係のゆずちゃん、はるかちゃん、ふみちゃんが試行錯誤してくれて早くなっていきました。最終的にははるかちゃんが役者衣装のセーターに白襟を縫い付けてくれて、白ジャラは一周で首に綺麗に巻けるようふみちゃんが加工してくれて、それも短時間でつけはずしできるようクリップでとめることになりました、プリーツスカートのボタンはクリップで止める、銀スパッツとダンスシューズははいたままで出る。という形になり、なんとかももちゃんがラジオ放送を入れてくれている間に着替えを終わらせ、次のシーンに間に合うようになりました。
 ダンスを踊り終わった後の上手から下手への移動へも、はけてくるダンサー、待機している金時太鼓さんとぶつからないよう、あゆちゃんが一緒に考えてくださいました。
 みんなの協力で、はじめは五分程度もオーバーしていた着替えが間に合うようになって本当にあり難い気持ちでいっぱいになりました。
 通し練習でも、本番でも私が走って早着替えスペースに行くといつも衣装係のふみちゃん、ゆずちゃん、はるかちゃんが待ってくれていて、焦ってしまった私が自分のことしか見えず、言葉もぐちゃぐちゃになってしまい、衣装係さんの気持ちを考えられなくなることもしばしばあったのですが、いつも寄り添ってヘルプをしてくれました。
 最後まで衣装係さんが考えてくれて、二人の誠実さを感じたし、本当に感謝しなければならないと思いました。
 
 本番当日、ダンスからシーンへの早着替えでトラブルが起こりました。ダンス衣装から役者衣装に着替え、最後にピンマイクをつけステージへ出ようとするとき、ピンマイクのクリップが見当たらずピンマイクをつけることができなくなりました。
 けれど、ゆずちゃんが素早く違うクリップを出してくれて、何事もなくステージへ出ることができました。
 
 
 
○責任
 
 ホール入り2週間くらい前から私は気持ちの起伏の差が大きくありました。自分が担っている責任が大きいと感じていました。
 演劇係をするのははじめてでした。自分が責任者だから、私がどこか抜けていると演劇がだめになってしまうという気持ちがあり、ちゃんとしなければならない、誰かに言われて気付く、というのでは絶対にだめだと思っていました。
 私は周りが見えていなかったと思います。同じ演劇係ののんちゃん、ももちゃんに気を遣わせてしまいました。自分のことでいっぱいで、今思うと一緒に練習していた主要メンバーの、演劇係の気持ちをまったく考えられていませんでした。
 
 私は足りていないことがたくさんあり個人で練習しなければならないことがたくさんありました。その足りていない状態でその責任に耐える強さが私にはかけていました。それはウィンターコンサート以外でも普段の生活においても、私は弱いのだなと感じます。
 もし、私がもっと強ければ責任を全うできるのに、私には今その力ない、それが今の私でした。私は今、自分が試されているのだという気持ちでした。今、頑張ることができたならば、成長できるはずだと思いました。
  
 舞台背景を担当し、ピンマイクの手配、エレキギターを弾き、夜中まで音響の仕事をしているまえちゃんや、ドラムを叩き、ホームページの編集をし、ホールに残って照明を進めるかにちゃん、スタッフのリーダーとして、なのはなのみんなを統括し、みんなを正義を持ってひっぱり、あゆちゃんはホール入り後も、その大変さをみんなに見せることはありませんでした。みんなが見えないところで与えられた責任を果たしてる人たちの姿がありました。
 私が大変だと思うことは本当はとても小さなことだと思います。
 
 そうやって、大きな責任を持つ人は常に提供者で、弱音を吐く姿を見たことがありません。誰も見ていないところで、いつも当たりまえのように努力しています。そして、それは孤独だと思います。大きさを感じる人たちはいつもお父さんが言う質の良い孤独に耐えているのだと思いました。そして、それがいつも評価されずとも、変わらずに努力し続けているのだと思いました。
 お父さん、お母さん、あゆちゃんが日々見ている世界はどんな大きな世界なのだろうと思います。
 そして、私が計り知れない孤独がそこにあると思います。
 そのことを考えたとき、私はなんて弱いのだろうと思いました。責任を感じたとき、自分が全うできるか不安で、人に頼ったり、気持ちが落ちてしまう自分は本当に子供なのだと思いました。
 私も、いつも甘えなく提供者であり続ける人のように少しでも近づきたいと思いました。
 
 
 27曲目、 『フロム・ナウ・オン』で団長、ジーブス、れいな、みちこ、グルグルをリーダーとして、ステージにいるなのはなファミリーのみんな、そして観客席にいるお客さん全員が新しい世界へと出発しました。
 私はこの脚本が大好きです。脚本を何度読んでも愛しさがこみ上げてきます。どのシーンも省く選択肢がないくらい大好きです。
 
 この日のためにみんなと走り続けた日々それが私にとってかけがえのないものになりました。
 自分の未熟さ、浅さを知り、だからこそ、私は私が求めるところへとこれからも走り続けたいと願います。
 苦しいことのほうが多かったです。苦しさと楽しさは表裏一体です。私は先輩方がこれまで築いてきてくださった伝統を守るため、なのはなファミリーの2018年ウィンターコンサートをみんなで成功させるため、走りました。
 私はこれからも成長し続けます。