「自分が主体でやったら」 のん

7月1日

○思ったこと
 勉強とは全然関係ないですが、昨日の集合のお話を聞いて思った事がありました。野菜なら一割くらいは駄目になるものと思って作ったらいいけれど、野菜を作ったことがない人ほど完璧に作らなくちゃと思ってしまうと言うようなことを聞いて、なんで完璧でないといけないと思うのか、ということを寝るときに考えるともなしに考えていました。

 そこで思ったのが、怒られるのが怖いからかもしれない、と思いました。一株でも駄目になったら、怠慢だとか、手入れが悪いと言われてしまうんじゃないか、怒られるんじゃないか、そんなことばかり思ってしまうから、完璧なら怒られないだろう、非の打ち所をなくせばいいのだろう、と思って完璧を目指してしまうんじゃないかと思いました。

 野菜作りに限らずですが、これはこのくらいの質と量でやるもの、ここは大事なポイントで、ここはそんなに大事じゃない、とか、そういう評価が苦手というのは、怒られることを防ぐことを考えているからなんじゃないかと思いました。

 自分がなにか(野菜作りとか当番とか)をうまくいかせようになってやったら、大切なところとそうでないところの波があるけれど、怒られないことだけを考えていたら、全部完璧にと思ってやるから、本当は波になるはずなのに、大切かどうかのレベルの線が中くらいの高さの直線を描いている、ということになるのだと思いました。

 怒られることが怖い、状態でやっていると、注意されることは地雷を踏んだみたいな感じがします。でも要点が掴めてないから、結局またどこかで踏みますし、一向に改善されないです。

 自分が主体でやったら、このくらいの質と量だろう、と思ってやるので、注意されたらそれが間違っていたことが分かるだけなので、改善できて、どんどんよくなっていけます。

 というのをここ1年くらい自分がリーダーで当番などをさせてもらって、怒られるのが怖いだけの状態から、リーダーをしている間はなんとかその当番の仕事を時間内に終わらせるためにはどうすべきかだけを考えることができるようになって、怒られるのが怖い状態と、自分主体の状態を行ったり来たりしていて、無意識に感じていたのだと思いました。

 自分がリーダーをしていると、もっと考えて動いてくれ! と思ってしまうことがあるけれど、きっと自分も別の場所では同じことをしている、という思いがあります。

 重要なポイントで外せないから緊張しているのか、怒られるのが怖くて緊張しているのかで、苦しさが違います。前者は苦しいけれど、前に進めます。後者はただただ不安で苦しいです。どっちで苦しいのか分からなくても後者のような苦しさを伴います。

 先日のハウスミーティングで、自分の勉強するのが苦しい、という話をしたときに、お父さんが、自分の試験勉強は責任があるから苦しいし、そうでない勉強は気楽だから苦しくない、と教えていただいてから、これは間違った苦しさじゃないんだと思ったら、逃げ出したいような苦しさがなくなりました。

 頭の疲れを、怠惰だ! と思って無理やりやろうとするのではなく、計算の頭が疲れたなら、理論とかほかの頭の使い方ができる勉強に切り替えよう、と思うことができるようになりました。

 怠惰だ、と自分が思うというよりは、怠惰だと思われてしまう、というものに近いから、やっぱり無意識下で、怒ってくる「誰か」を警戒しているのだと思いました。

 

 どう思われるか、怒られるかどうか、を一回外して、自分はこれが正しいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、ということをやってみて、怒られたら、その考えが間違っていたから直せばいいんだということが実感として見えたので、書きたくなって書いてしまいました。まとまりのない文章ですみません。読んでくださってありがとうございます。