第252回「悲しむこと」

【質問】
 私は、自分のすぐ隣に、未知で、深くて、暗くて、悲しい、とてつもなく大きな穴があることを知っているのに、わからない振り、気付かない、見えない振りをしている気がします。

 気付いて悲しんでしまったら、涙を流してしまったら、終わりがなく、果てしがない気がして、立ち直れない気がして、コントロールできない自分が現れること、悲しむことを恐れている気がします。いつも、勝手に私を生きている誰かの魂が、(その正体は、自分自身の理性なのかもしれませんが)、そうさせている気がします。
 物心ついたときから、ずっとそうだと思います。
 きっかけかはわかりませんが、5歳の時に、自分が悲しんだら人を悲しませることになる、と思って、グッと我慢して笑顔で振舞った記憶や、6歳の時に、映画に感動して涙が出てしまったときに、感動して泣いたと知れたら父に絶対にバカにされると思って誤魔化した記憶もあります。
 迷惑をかけてはいけないという気持ちが勝って、悲しむことも怒ることもできなかったと思いました。一度でも、自分の気持ちを見て立ち止まってしまったら、もう二度と動けないとずっと思って来たから、自分の感情を許さないできました。

 でも、本当は、私はきちんと悲しまなければいけない気がします。ないことにしてきた、今までの悲しみを、もう自分に許して良いのだと思うのに、悲しみ方がわからないのか、麻痺されているのか、過去を否定したくないからか、今でも誤魔化して、悲しくない自分を正当化して、悲しむことが許されません。
 この状態は合っていますか。どうしたら悲しめますか。

自分の答え:私は立ち直れなくなっても、取り繕ってきた自分を壊すために、悲しめば良いと思います。でも、何に悲しむのだろうと思います。また、本当に立ち直れなくなることは、現実的に許されないし、迷惑だし、困ります。

 
 

【お父さんの答え】
お父さん:
 自分の隣にある未知の穴ぼこ――。それを悲しむべきか。
 答えは当然、悲しむべきではない、です。もう後ろは振り返らない。
 こういうことなんですよ。今日ね、ハウスミーティングでたまたま話したんですけど、人間は、誰でも、いつかは死にます。
 その死ぬって言うこと自体、深くて、悲しくて、辛い現実です。きっといつでも、すぐ傍にあります。僕も年齢的にいっても、だんだんその穴ぼこ近づいてきました。理性的な人は、いつか死ぬと思ってる。
 自分が死ぬということに対しての構えには、3つのパターンがあります。
 1つめは、死ぬ時期が近づいても、悠然と恐れずにゆったりと構えている人。
 2つめは、死が目の前まで迫っても、悠然とではないかもしれないけど、死を受け入れている人。
 3つめは、死ぬのはヤダーッ、とジタバタする人。
 ともかくね、そう3パターンがあるとします。

 これを、穴ぼことしましょうよ。その死ぬことに対してどうするのが正解か。当然だけど悠然と構えているのが正解なんです。ジタバタするのは見苦しい。
 じゃあ悠然と構えている人と、ジタバタする人との違いは何か。
 悠然と構えている人は、死後の世界を信じて楽しみにしているのです。
 美女がたくさんいる。蓮の花がたくさん池に咲いていて、美味しい食べ物が豊富にある。着るものも薄着一枚で済み、ちょうどよい気温にコントロールされていて、快適この上ない。天国、といってもいいでしょうね。死後の世界はそういうものだと思っている人は、死ぬのが楽しみでしょうがない。来世とか、死後の世界を楽しみに、死に向かう。

 死んだら何もない。何も消えちゃう。思い出も。家族も持っていたものも全て失う。ゼロになる。そう考えてしまったら、死ぬのは悲しいし、そんなの嫌だと思う。
 それはそうだよ、誰でもね。そうじゃなくて、楽しみだな、次の世界はどんなだろうか、と思ったら、死ぬのは全然、怖くないんです。
 似てる気がするんだよ。
 自分の過去を振り返って、自分の穴ぼこや、悲しみを見るよりかは、これから先の未来に楽しみや、喜びの期待を大きく持つ、それが大事です。
 じゃあ、この穴ぼこは、どうするの? となるかもしれない。だけど、この穴ぼこを経験した私だからこそできることがある、と思えばいいのです。

 もう、みんなはなのはなファミリーに来た時点で、マイナーな人生になっていますよ。今さら、メジャーな人生は期待しないほうがいい。ここにいる時点で、みんなの人生はあまり表通りを歩く人生ではなくなっている。
 つまり、小、中、高、それから大学へと進んで、一流企業に就職し、大活躍をする、というような既定路線を歩く人生が表通りだとすると、そういうことではなくなっているという意味です。
 ただ、マイナーな人生とはいいますが、この春、国立大の医学部に入った子もいます。医者になるために、大学に行きました。だけど彼女もマイナーですよ、心はマイナー。
 もしも、彼女が摂食障害にもならずに、ずっと優等生で勉強も運動もできて、ストレートで医大に行って医者になったら、ひょっとしたら人の痛みがわからない医者になっているかもしれない。
 だけど、彼女は苦しんで遠回りをしたからこそ、人に言えないような苦しみを抱えてやってくる患者の気持ちを汲める医者になれるでしょうね。そういう意味で、最新医療技術を振りかざして治療にあたる医師ではなく、どんなメジャーな医者にも見放されたような患者を喜んで受け入れる医者になるだろうと思う訳です。
 そういう意味で、マイナーな人生は捨てたものじゃない、と思うのです。

 もしも、自分が幼いころに悲しみそびれたな、と思っても、もうここからはそういう気持ちは切り捨てましょう。
 今の時点で、わからない悲しみは、わからなくて良い、ということにしましょう。
 それよりも、いま本当に深い楽しみを見つけることができる人になる。未来に、希望を持てる人になる。
 死後の世界に楽しみ見つけるのも、自分が生きてる未来に楽しみを見つけるのも、本当にどうなるかはわからない、という点では同じなんです。それを楽しみに思うかどうか、そこに楽しみを見つけられるかどうか、なんです。

 自己否定という言葉があります。自己否定したら、その時点で、未来を否定していることになる。自己否定は自分で自分を評価して、駄目を出すようなもの。
 みんなはもう、5歳じゃない。6歳じゃない。もうずいぶん前に、そこは通り過ぎている。
 昔のことは、本当は、今と関係ないです。
 それを今から悲しみ直すというのは、時代錯誤です。そんなことをしても、未来には繋がらない。どっちみち、マイナーな人生です。メジャーにはならない。でも、もう何も怖くない。世の中のすべての人がメジャーな人生を歩くわけじゃないです。マイナーとはいいながら、ユニークな人生を歩くことはいくらでもできる。新しい期待を持つ事は、いくらでもできる。そっちに目を向ける、ということなんです。目は1つ(2つ)しかない。だから、暗い過去を振り返るか、明るい未来を見るかの、2つに1つを選ぶしかないのです。どっちを見ますか? 当然、明るい未来を見ればいいのです。

 今日、ハウスミーティングで面白い質問が出ました。両手で素早く雑草を抜く人がいるけど、私は片手でしか抜けません。どうやったら両手で雑草が抜けるようになりますか、という質問です。
 でもね、よく考えてみてください。もしも、両手で雑草を抜くとしたら、下手をしたら片方の手は空振りになりますよ。普通は、雑草を抜くのは片手で充分だし、片手でも充分、素早く抜けます。両手で抜いているように見えても、右手で抜いて、左手にパスして、左手でテミに入れていたら、両手で抜いているように見える、というだけでしょうね。
 人がやっていることって素晴らしく見えがちですけど、そんなことはないですよ。

 はっきり言って、もう気が付きましょうよ。
 今の時代を、今、生きる。これだけでも難しい。のろまな人に、腹を立てない。人気がある人に嫉妬しない。グズグズと文句を言う人に腹立てないで流す。難しいけどね。
 いろんな困難を越えて、今を生きている。その今を楽しむ。
 このゴミの様な現実から、明るく、楽しい未来を想像する。これまた難しい。いつだって、人生はそう、びっくりするくらい難しい。
 だってね、かなり上手く高度に運営されているかの様に見えたこの世界も、コロナウイルスで滅茶苦茶、ぐちゃぐちゃでしょ。コロナウイルスで会社が大減益とか、倒産するかもしれないとか、すぐにそういうことになってしまうって、こんなにこの社会は脆かったのかなと、みんな驚いたのではないでしょうか。
 小さくて、目に見えないようなウィルスで世界中大混乱。100年に一度の危機とも言われている。今の医療技術があまり役に立たないのか、極めて死亡率が高い。
 現実は、誰にとってもぐちゃぐちゃなのかもしれません。
 人生は誰にとっても上手く行かない。国のレベルでも、たった1人の人にとっても、同じことなのかもしれません。
 だから、どんなに上手くいっているような人を見ても、絶対に羨ましがる必要はないんです。いつ、どこで、どんな人が挫けてしまうか、それは誰にもわからない。
 だから、羨ましがってるよりも、このぐちゃぐちゃな中からでも、密かな期待、密かな希望を持ち続け、夜中に布団の中でニマニマと笑う。そして最強の精神力の持ち主になる。布団の中で涙を流さない。もう悲しまない。悲しみを探し出そうなんて、二度と思わない。それが正解です。
 
 
 

(2020年5月5日 掲載)